東日本大震災から2年 苦難に直面しながらも
がれきの中から新たな歩み
東日本大震災から2年目を前にした2月16日、大津波で甚大な被害を受けた岩手県釜石市で、同市平和委員会が結成55周年を祝うレセプションを開催しました。会員自身が被災しながらも、被災者の生活と戦災資料館の再建など、地域の平和運動の先頭に立って活動してきました。
レセプションに先立ち、9回目となる「釜石地域平和大会」(同実行委員会主催)が開かれ、80人が参加しました。日本平和委員会の佐藤光雄代表理事が「世界の宝 日本国憲法を守り、諸悪の根源日米安保条約廃棄を」と題して講演、釜石市長と大槌町長からメッセージが寄せられました。
大会は03年以来毎年開かれてきましたが、昨年は大震災被害のため開けませんでした。それを今年、再開したのです。
大会の開催を呼びかけ、支えてきたのは平和委員会でした。また、5月3日の憲法記念日の行事、「9条の会」への参加、釜石艦砲戦災遺族会や岩手傷痍軍人会、商店会連合会と共同した艦砲戦災資料館の建設運動、戦争体験集の発刊に取り組んできました。こうした積み重ねのなかで2010年、ついに市が資料館を開設しました。それがあの大津波で、一瞬のうちに流失してしまったのです。
原稿流されたが
釜石市平和委員会事務局長の前川さんの自宅が流失したのをはじめ、会員1人が死亡、数人の会員が親族や家を失いました。
前川さんの自宅に保管してきた活動の資料は全て失われました。今回の記念レセプションに向けて作られた「釜石市平和委員会活動資料」は、被災を免れた会員から集めたり、がれきの中から資料を発見して汚れを落としたりして、なんとかまとめたものです。
表紙には、10年8月9日、戦災資料館開館に当たって市の招待を受けた際に、入り口で撮った写真を載せました。前川さんはレセプションのあいさつで、そこに写る10人の中には津波で亡くなった人もいること、またほとんどが家を失うなど被災したことを紹介し、「津波と戦争の被害を受けた、釜石の歴史と今日を象徴しているように思う」と語りました。
市長要請を通し
困難な中にありながらも活動を再開した同平和委員会は、艦砲射撃を受けた記念日である昨年7月13日に市長と面会し、戦災資料館の再建、戦争遺跡の保存、艦砲犠牲者名簿の作成、犠牲者名を刻んだ追悼碑の建設、平和市長会議への加盟、非核自治体宣言の看板の設置などを要請しました。働きかけを通し、市長は平和市長会議に加盟し、要望を実現する方向で前向きに検討すると表明しています。
また、3集目の「戦争体験集」の発刊も実現しました。公募して寄せられていた原稿は、全て津波に流されました。そこで、まだがれきの山が多数残る中、寄稿してくれた一軒一軒におわびをしながらもう一度書いてくれるように頼んで歩きました。津波で死亡していた人、特別養護老人ホームに入所した人、釜石から去った人もおり、原稿集めや聞き取りは困難を極めました。しかしとうとう昨年8月15日に第3集が完成。その姿は、NHKで全国に報道されました。
市平和委員会は今後、99年に市内山中に墜落した米軍F16戦闘機の事故現場を視察し、低空飛行訓練とオスプレイに反対する学習のつどい(4月20日)や、沖縄交流ツアー(5月)に取り組む計画です。
地域平和大会で、昨年の原水爆禁止世界大会に初めて参加した関谷さんが語りました。「広島で原爆の被害の実相に触れ、あ、これは津波の被害と同じだと、涙が止まりませんでした。核兵器は決して他人ごとではない、平和のために何かしたいと帰ってきました」――いま被災地での新たな平和委員会の歩みが始まっています。
��平和新聞2013年3月5日)