【被災地へ】福岡から宮城へ

2011/08/31

各地の活動

【被災地へ】福岡から宮城へ
��週間、ヘドロかきなどに奮闘


7月25日~8月1日、宮城で震災ボランティアに取り組んだ、福岡県・八幡平和委員会事務局長の佐村さんのレポートです。

佐村震災地レポート1号 7月25日
福岡を出発して、八時間。宮城県柴田郡柴田町槻木に着きました。今日の作業は終わっていて、明日からになります。
槻木からは全く被害は見えてこず、電車から仮設住宅が見えた位です。下水処理場が壊れていて、海にそのまま流しているので、トイレットペーパーが流せないそうです。
ここは津波地域と山を挟んでいるので、屋根にビニールがちらほら見える位です。においもなければ、虫もなし。蚊もいません。 スーパーも復興していて、なんでもそろいます。いちご畑の復旧は完了し、カーネーションも昨日終わり、いまは物質届けと受け渡し作業が主で、これから要求がまた入ってくるそうです。
福島県境の山元地区は、仮設住宅が二週間前に出来た場所で、道具などがない状態です。

どの人も、まず喪服や靴がない。
包丁がなく、何も切れない。
血圧計がなく、すぐ欲しい、命にかかわる。
食料よりなにより、喪服が必要だった。
などの要求、対話があります。
地震がくると、ちょっと緊張します。八時三分震度3。

佐村震災地レポート2号 7月26日
二日目は、山元町仮設住宅で支援物資の受け渡し。
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2時から荒れ放題の畑の草刈り。
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5時から帰り道に被災地を見学しました。
支援物資の中には絵本もあって、子供達に渡しました。ありがとう!って男の子。
あっと言う間に洋服類を残して物資はなくなり、帰り際に、ありがとね!とおばあちゃんが仮設住宅の中から手を振っていました。
ありがとうございました。と挨拶しながら次の場所へ。
車が三台流れ着いたHさんの荒れ放題になった、キウイ畑の草刈りをし作業終了後、廃墟と化したやました山下駅を通過。

花釜の小学校に行きました。
一人で生徒、教師のいない夕暮れの校舎を歩き、教室を一つ一つ見て違和感が。
どの時計も3時19分。地震では止まらず、津波で一斉に、だと思います。時計を確認しながら表玄関、教室、職員室、校長室、保健室を抜けて、体育館へ。
��好奇心で見て回ってるな、悪いな。)と思いつつ扉を開けて中を覗くと、無人の体育館いっぱいにブルーシートが。ピアノがあった場所に、大きなクマのプーさんが一つ。ここも3時19分。
ここは避難所だなと思い。扉を閉め、車に歩き始めて気付きました。
ブルーシートに土がありました。体育館は遺体の一時保管所でした。

2時46分の地震から、3時19分の津波で怖い思いをした子供達に、もう何もしてあげられなくって、ボランティアで。役に立ちに来たのに。言葉が…何も…出てこない…。
ボランティアセンターで学校周辺から、たくさんの遺体が見つかったことを聞きました。
余震は三回です。
��学校の名前は山下第二小学校だそうです。ここは遺留品一時保管に使われていたそうで、遺体の一時保管に使われたかは定かではありません。可能性はあるとのこと)

佐村震災地レポート3号 7月27日
三日目は、朝から畑の草刈りの続き。ヘドロの土嚢詰め。
気温は30℃晴天。 午後は雨のため、作業を止め、車で被災地を回りました。
慣れない鎌、クワ。でも30分もすれば、使えるようになり楽な作業です。
ヘドロは粉状になっていました。土嚢に詰めるとかなりの重さで、中に尖った物が入っているため気を付けて作業しました。

塩害にさらされた畑で、育つのは雑草とひまわり。
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ひまわりは周囲の塩を吸い上げる。大草原と化した被災地に、点在しながら元気に育つ黄色い花に心が暖かくなった。確かに温度を感じた。

山元町の自動車学校は津波で壊滅した。躊躇する送迎バスを呑み込んで。犠牲者は青年たち。免許がない彼らは車で逃げることはできなかった。
昨日より今日、変化を見るは献花の数が増えていく事。
ご家族か、若い男性が花をもって一人立ち尽くしていた。
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運転しながら被災地の走れる道を覚えました。でも一人だったら怖いです。いろいろ想像します。もし車の重さでアスファルトが割れたら…砂地が陥没したら…。道路はいたるところがそんな状態です。釘、ガラス、木片、ハンガーが刺さってパンクしたら…
瓦礫を運ぶダンプカーと天候に、日々道路状況が変わります。もしパンクしたら、センターまで暗くなる前に、道路と荒れ地の区別がつく間に、帰らないと動けなくなります。多分民家の灯りは見えます、かなり遠く、数キロ先に。
でも民家と自分の間に、草原と化した町と湿地と化した畑、まだ人の混じっているかもしれない、分別の始まってないガレキの山があり闇の中です。車でも早く帰らないと。
自動車学校を通りすぎ、山元町の外れ、県境に来ました。雨で薄暗いです。
車を停め車両通行止めを越えて、ここからは徒歩になります。
16時49分。
福島に入りました。
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��実は入って50メートルほどで行き止まりました、新地駅の見える崖。地盤沈下でクレーターになってしまっています。誰もがあれって…と思い聞かなかったのですが、遠くに見えるのは火力発電所でした。自動車学校をすぎて、中浜小学校に行きました。ここは生徒全員が天窓に上がって助かりました)

佐村震災地レポート4号 7月28日
四日目は、支援物資の仕分けと 被災者Yさんの畑の草取り。
気温は29℃晴天。16時30より豪雨。
被災者Yさんが家に帰った時、畑には車が一台と大型冷蔵庫が流れ着いていた、倉庫が基礎からズレて、きれいに畑に着地していた。
車と冷蔵庫が撤去された後、倉庫が移動していることに、しばらく気付かなかったそうだ。
Yさんの家には猫が7匹いたが、津波で3匹亡くなった。親猫と子猫達は逃げきれなかった。
畑の草刈り作業中、庭に猫達のお墓を見つけた。板には「下に大切なものが埋めてあります、そのままにして下さい」。
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近所からお腹を空かせて、エサをもらいに来た震災猫が、何匹も畑を横切ってYさんの猫に挨拶をしてエサを食べていく。
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震災後すこしづつ、自宅の様子を見に、Yさんの近所の人が帰って来ていた。Yさんがボランティア要請を、近所から聞いて来てくれる。震災が起こる前は近所との繋がりは全くなく、誰が住んでいるか名前も知らなかった。僕達の事も、ボランティアセンターの事も知らなかった。
二日目の帰り、写真を撮っていると、うちも床下の泥の掻き出しをしてくれないか?と、声をかけられた。すぐに用紙を持って対応するが、冷やかしだった。
今日はボランティアカーに、その近所の人達も手を振って会釈してくれる。
30日Oさんの、床下ヘドロの掻き出し作業が決まった。
��子猫が二匹二階ベランダにいて助かった、残りの二匹を助けに下に行って親猫は帰らなかった。子猫は近所の震災猫に育てられて生き延びた。二週間して避難所からYさんが帰ってきた。)

佐村震災地レポート5号 7月29日
五日目は、大雨洪水警報のため、作業を中止し。被災地を取材して回った。
天気は予報が外れ、晴天。27℃ 夜22℃
ボランティアセンターの北側、仙台空港、塩竃、松島、石巻、女川まで海岸線を走り被災地を見て回った。仙台空港の南はまだ遺体捜索中で、警察に封鎖されていた。仙台空港のそばの川に、飛行機が一機。
仙台港土手の下で、遺体を埋葬していた。
女川でいくつも家が転がっていた。
ちょっとした広場に遺体を埋葬していたり、家、船、大きなモノが簡単に転がったり、乗り上げたり…人がいない廃墟と、あまりの光景に映画のセットのように感じる。
つねに見て想うのは、そこに生きていた人の無事。

佐村震災地レポート6号 7月30日
六日目は、床下ヘドロの掻き出し。
仙南ボランティアセンターでは、初めての依頼です。
初めてOさんのお宅に伺った時、どこを掃除すれば良いのか?さっぱりでした。
83歳のおばあちゃんが懸命に掃除した、きれいなバリアフリーの築5年。おばあちゃんの入れない床下はヘドロで覆われていました。入り口が二つだけ。台所の収納からと、床下通気孔から。
中に入り、ヘドロを箱に入れ運び出します。
床下は高さがなく、ホフク前進しか出来ず、閉所恐怖症でない人が入ります。
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マスクを着け、服が汚れないように雨ガッパで完全防備。真っ暗な高さ45センチの床下を、躊躇わないように十メートルほど一気に這い、息苦しさと熱気に息を荒くしながら辺りを照らし状況を確認。懐中電灯のオレンジの小さな円い光が照らす、乾いたヘドロに覆われた基礎コンクリートの床下。頭を上げるとヘドロを吸った断熱材。膝は伸ばしたまま曲げる事も出来ず、方向転換も容易でない。真っ暗闇の中堪えられなくなって、立ち上がりたいと強く思っちゃったら?その場で這いながら回転し、出口まで配管とケーブルを乗り越えながら十メートル…。
閉所恐怖症かどうかは、その状況におかれた時に気付くんだと解りました。
身動きの利かない状況、目の前にヘドロ、目に入る汗は汚れた軍手で拭う事も出来ない。熱気と荒くなる呼吸にかなり焦りながら、先に入ったボランティアが持つ、キャンプ用ライトの青い蛍光灯に落ち着きを取り戻した。

佐村震災地レポート7、8合併号 7月31日
七日目は、ヘドロ掻き出し残り。瓦運び。
七日目は携帯電話の大音量アラームに飛び起きた。他の人を起こしてしまったかと、ドキドキしながら… こんな時間にアラームセットしたっけ?と携帯電話を見ると、画面に緊急地震速報の文字が!二秒で揺れ始めました。
午前3時54分。
仙南震度4。福島震度5強。
みんな起きていましたが、地震が過ぎたあと床下の疲れか、またすぐに寝た。
この日の作業は、朝から床下に入り残りを運び出す。 床下は慣れました。
頭をよぎるのは、津波が襲った地域の床下で、もし今朝の地震速報アラームが鳴ったら…

一時間で作業は完了し、Oさんと記念撮影。お礼を言った後、次のSさん宅の瓦運びに。

レポート8 8月1日
仙台は24℃、夜は17℃
帰りの新幹線の中です。
八日間という短い間でしたが、いろいろありました。被災地を見て大きな地震にもあい、ヘドロを掻き出すために床を這いました。一緒にがんばる、ボランティアの人に恵まれました。
八日間、ほんとうにありがとうございました。
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仮設住宅のみなさん、もちろんセンターの方達も、たくさんの笑顔が見れて嬉しかったです。
ボランティアで伺った被災者の方々の、笑顔を見ることができてよかった。やってよかった。そう思いました。
18時58分、無事に小倉に着きました。
��「ありがとね」。作業終わり、そう言われる度にその笑顔を見ながら、「こちらこそありがとうございました。救われます」。そう言いたくなる。被災地を見ると本当に冷え込む。
元気に咲くひまわりに救われた。)

今回、被災した、たくさんの人に会いました。
家と土地、お父さんお母さん、おじいちゃんおばあちゃんを失い、震災孤児として同級生とも会えなくなる。そんな状況を受け止める子供たち。
  二階に避難していて流されてくる家族を、右手左手でやっと掴み、残り四人の家族を流されて失った人。
  子供も旦那さんも両親も失って、仮設住宅で並べた位牌を前に途方にくれ耐える人。

そんな苦しむ人たちに「がんばろう」とさらに求めるは酷です。すでに耐えるという努力を必死にしていました。「がんばろう」って実際その場所に行った人が考えた言葉ではないと思うんです。

仮設住宅に入った人たちの間で、すでに二十人を超える人が自殺をしています。
僕に出来たのは、よく話を聞いて、そばにいてあげることだけ。「一人じゃないですよ、そばにいます」。という言葉をかけることしか出来ませんでした。
なにか自分に出来ることはないか、言葉はなかったのか今も考えてます。

カウンター〈21/06/18-〉

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